シャッターを切る。歴史的の決定的な瞬間を切り取って、人類の足跡の一つとする。新聞記者が撮る写真というのはそういうものだ。あちらこちらに足を延ばし、色々な出来事の現場へと馳せ参じる。求めて行動しているから、当然といえば当然といえるかもしれないが、記者というのはフィクションのような信じられないことに遭遇することがままある。その中でも、倉石はそういう星の元に生まれてきた人間だった。
街から車をとばして三時間。どこを見ても山ばかりの、自然豊かな公園に倉石は来ていた。
わざわざ車で長時間運転して来たのは、新聞に載せる写真を撮るためだ。自然豊かで綺麗な風景写真が必要だった。
到着したころにはすっかり日が沈んで真っ暗になってしまっていた。
光源が存在しない山々に囲まれていると、酷く不安になる。満点の星空だが、端にある月や星の光は、大地から伸びる山の影が遮る。真上にある月だけが心のよりどころだ。月が山の向こうに隠れてしまったら、どうしようもない不安と恐怖が胸の中から肉を食い破って出てきそうだ。
街灯はあるが公園ではなく、道路を照らしている。この公園には駐車場に一つあるだけだ。
倉石は前にもここに来たことがあったが、その時は昼間だったからか、夜は印象が全く違って見えてもはや別の場所としか思えなかった。
地上は暗くても、真上はキラキラと輝いている。夜空を収めた写真にはこの世の物とは思えない宝石たちが写っていた。
前を向けば怖いので、倉石は上を向いて写真を撮り続けた。
日付が変わるころ、急に寒くなった。耐えきれなくなって車に逃げ込み、毛布に包まって凌ぐことにした。
気づいたころには朝になっていた。朝日が目から脳内に侵入し、眠気が少し焼けた。
明るくなれば、怖いと思えるところは何ひとつ無くなっていた。何が潜んでいるかわからないところも、日の光で照らされて、そこには何もないことがわかる。
トイレで用を足した帰りに、夜には見えなかった看板があった。前に来た時には無かったものだ。
熊注意! 負傷者多数! 夜は出歩かないで!
デカデカと主張の激しいフォントだ。それだけ危険だということだろうか。気になってスマホで調べてみると、(山に囲まれているが、電波は通じる。)次々に出てくる熊の被害による事件。幸いまだ死者は出ていないようだが、専門家によると熊は完全に人間の味を覚えてしまったようで、いつ人が熊に殺されても不思議ではないという。
ゾッとした。もしかしたら、あのまま外にいたら熊に襲われていたかもしれない。朝の肌寒さとは関係ない身震いをした。
とりあえずは何もなかったことに感謝して、車に戻って昨日の夜に撮影をした写真の確認をすることにした。一眼レフカメラの画面とにらめっこして、記事に載せられる写真があるか吟味する。
変だ。何かおかしい。明るくなって気づいた。写真の風景と、明るくなったことで見える今の風景。
例えばこれだ。写真に写っている道は左にカーブを描いて曲がっているのに対して、目の前にある道は右に曲がっている。見間違いだとか、勘違いとかなんかじゃない。目印の標識は一致しているし、自分がどこでどの方向に向かって写真を撮ったのかは覚えている。
他の写真もいくつか現実と写真の風景では違うものを見つけた。山の形や地面の高低差が違う。
知っている場所が違う場所に見えてたのは、暗くて前に見たものが見えなくなっていたからじゃなかった。地形が変わっていたからわからなくなっていたのだ。
写真を見ながら撮影した場所を歩いて回ってみたが、間違いは無かった。倉石の頭がおかしくなっていないのであれば、おかしいのはここの土地だ。夜中と日中とで姿を変える地形。アスファルトでできた道路もうねって形が変わっているのに、割れるどころかヒビ一つついていない。まるで生物のようだ。
いったい何時、何故、異変が起きているのだろう。倉石は興味が沸いた。
この辺りは民家はそれなりにある。もちろん、普通の市街地に比べればかなり少ないが、少なくない人がここで生活をしている。ならば、この怪現象について何か知っていてもいいはずだ。
畑で作業している人を見つけた倉石は、夜に変なことが起きていないか聞いてみた。
返ってきた答えは熊が出るから気をつけろということだけだった。写真を見せておかしい地形について聞いてみたが、「熊に出くわすと危ないから夜にこの辺りをうろつくのは絶対にしてはいけない」と言われた。
おかしなことが起きている証拠を突き付けたのに、答えは変わらなかった。
他の人の話も聞いて回ったが、答えは同じ。
「熊に気をつけろ」
住人たちとは会話は問題なくできていた。むしろ親切な印象を抱いたほどだ。しかし、皆一様に同じ答えしか出さないのだ。
これは、興味をそそられる。
倉石は露骨に隠された真実の存在に、記者としての琴線を刺激された。スクープになるようなことでもないし、新聞記事のネタにするにはオカルトすぎるが、取材したい、取材するべきだと心の底から思ったのだ。
人に聞いてダメならば、直接現場を押さえるしかないと、倉石は夜を待つことにした。ただボーっと昼寝でもして待つこてはできなかった。はやる気持ちがなにか行動をせよと、促してきた。昼間の通常の地形を撮ることにした。昨日とは違う角度や高さで、徹底的にカメラに収めた。
記事に必要な写真もついでに撮っていたら、いつの間にか日が暮れていた。夜が来る。異変が起こる夜だ。
カメラのバッテリーは問題ない。予備も持ってきている。データの容量も十分だ。念の為に買っておいた熊撃退用のスプレーもある。準備は万端だ。
電灯の明かりがぽつぽつと右にカーブを描いて道なりに並んでいる。今はまだ昼間と同じ形だ。これくらい自然が豊かなら、大小様々な動物の鳴き声が聞こえてくるはずだが、そういった音は一切しない。不安をかきたてるほどに、生物の気配がない。小川を挟んで少し離れたところにある民家から漏れる明かりだけが、誰かがいるという証明をしてくれる。その明かりは彼岸にあって、どうしようもない距離を感じるが、それでも倉石にとってはあるだけマシだった。
アスファルトで舗装された道路を歩き回る。どこから変化が起きるのかわからないから、こうするしかできることがない。それに、一か所でジッと待ってるよりは何かをしていたい気分だった。
月が雲に隠れた。あんなにいっぱいいた星たちも、大きな雲の向こうに行ってしまった。
空に気を取られていた倉石は、地面の動きを足の裏から感じた。ハッと、道の先を見ると、波がこっちに向かってきているのが、いくつもある街灯のスポットライトの中に確認できた。
硬いアスファルトが生き物のように動いている。倉石は自分が立っている場所が、巨大な生物の背ではないかと疑った。そう思うと、温かみも感じるような気がする。
押し寄せてくる波は次第に大きくなり、いよいよ倉石よりも高い波がカーブの向こうからやってきた。
津波のように襲いかかってくるアスファルト。倉石は来た道を走った。その直前に、異様に変化した道路を何枚か撮った。危機迫る状況でも記者の精神は忘れない。
右へ左へ、道を曲がって波から逃れることができた。山の斜面を登って少し高いところで辺りを見た。うねりは止まらず地形は絶えず変化している。すぐ下では得物を逃がすまいと、手を伸ばすように波打っている。
都心から離れた山々の中にある田舎町が、変容していく。非現実的な光景が出来上がっていく。昼間会話をした住人たちは大人しく家に引きこもっている。人の気配がするのに、誰も何もしない。本当は一人もいないような不自然さが、動く地形よりも不気味だ。
朝になれば、このおかしな悪夢から抜け出せる。それまではここで待っていよう。
そうしていくらか時間が過ぎたころ、足先を何かが舐めた。即座に足を引っ込める。小さな動物でもいたのか、それにしては石のように硬い感触だった。
緊張がほぐれていたせいなのか、気がつかなかった。アスファルトの道路がさっきよりも近い。ここまで届いたのか。否、そうではない。山が沈んで下がっている。あれが追いついたんじゃない。倉石のほうが近づいたのだ。
山を這い上がり、ひとまず脅威から遠ざかる。それでも、このままここにいてもいずれは追いつかれるかもしれない。もっと遠くに行かなければ。
斜面を上り切ったところに鉄塔があった。もう使われていないのか、電線も通っておらず、雑草だらけでしばらく人が踏み込んだ形跡がなさそうだった。
倉石はよじ登った。カメラを傷つけないように、肩掛けストラップで首から前に下げていたのを背中側に回した状態にして。
ジャングルジムで遊んでいたのは遠い記憶。成長するに従って運動はしなくなった。ボルダリングの経験もない。それなのに上まで登ることができたのは、危機的状況における火事場のばか力というやつだろう。
幸い風は強くない。こんな高いところで風に煽られてしまえば、抵抗できずに落ちてしまう。
上空の風は地上とは違い、雲を流していく。届かなかった夜空の光が降り注いだ。今夜の月の光はいつもよりも明るかった。見えなかった全容が見えた。
高所と月の光で見えたのは巨大な熊の顔。それも、怒り狂ったような恐ろしい形相でこちらに牙を向いていた。捻じり、曲がり、歪んだ地形が地上絵のように熊の顔の絵になっていた。山を飲み込もうとしていて、麓に牙を立てている。ゆっくりと、捕食をしている。
落ちないように片手で体を支えながら、器用に片手でカメラのシャッターを何度も切った。シャッターチャンスは逃さない。
山に隠れた東の空がわずかに白み始めたころ、熊は山を飲み込むのをやめて、吐きだした。動画の早戻しように、通常再生と違って動きが速い。変容していた地形はあっという間に元に戻り、特に変わった様子がない普通の田舎町になっていた。
念のため、太陽が完全に顔を出してから鉄塔を下りた。どうやって登ったんだと、自分でもわからないくらい怖かったし時間もかかったが、無傷で下りることができた。
その後はすぐさま車に戻って帰路についた。さっきまで牙を向いていた道路を走るのはドキドキしたが、すっかりどこにでもある普通の道路になっていた。
悪夢ような出来事だったが、現実に起こった証拠の写真は残っている。倉石はこれを世に出す気にはなれなかった。オカルト雑誌の記者ではないし、騒いだところでどうしようもない問題だろう。
ただ――それから何年も経ったときに、その田舎町に近い不動産屋に話しをする機会があり、空き家が多いということを言っていた。彼が言うには、倉石が熊に気をつけろと言った住人が住んでいた家と、あの夜に明かりが漏れていた家は、十年以上前から誰も住んでいないらしい。