羹に懲りて膾を吹く =熱い吸い物を飲んで火傷したのに懲りて、冷たいなますでも吹いて冷ますという意味の故事成語。失敗に懲りて必要以上の用心をするたとえ。
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世界は勇者によって救われた。
悪逆の限りを尽くしていた強大な魔王は勇者に倒されたが、こと切れるその間際に勇者に呪いをかけていた。あらゆるものが高温に感じられ、触れることができない呪いだ。空気中に舞うホコリでジリジリと肌が焼け、衣服は拷問の道具と変わらず、風呂もマグマのように熱く感じて、灼熱地獄にいるかのような日々を過ごしていた。低温だけが平気だった。冷たいものはそのまま冷たく感じ、勇者は温かいものに触れることができず、家を魔法で冷気で包み、常に寒さに震えていた。
その呪いは時間がかかったが、世界でも指折りの解呪師たちが総力を挙げて呪いを解くことに成功した。これで勇者も地獄から解放されて元の日常に戻れると思われた。
勇者と同じ冒険者ギルドに属している同僚の冒険者が勇者の自宅にやってきていた。魔王を倒すために旅へ出て、魔王を倒して戻ってきても呪いのせいでしばらく会っていなかったが、呪いを解くことに成功した今、会いに来たのだ。
勇者の自宅を訪れて同僚がまず感じたのは、冷気だった。雰囲気が冷たいとかではなく、物理的に冷たいのだ。今日の気温は20度。晴れ。とてもすごしやすい天気だ。なのに、勇者の家の敷地に入ったとたんに肌に刺すような冷気が襲ってきたのだ。勇者の例の呪いは完全にきれいさっぱり解かれているはずだ。まさか再発したのか。そんな呪いは聞いたことがない。だが、勇者を蝕んでいた呪いは、あの魔王の呪いだ。常識の範疇にあるもの、ではないことは十分ありえる。
鍵のかかった玄関を無理やり押し破り、同僚は勇者の家に乗り込んだ。家の中は外よりもさらに寒く、体が震えて歯が鳴った。近くの部屋に入ろうとしたが、ドアが開かない。この寒さで、凍ってしまっている。ドアノブを直接握っていたら皮膚がそのまま張り付いて剥がせなくなっていただろう。同僚はグローブを常備していたから助かった。
また力づくでドアを開けたが、そこは物入れで勇者はいなかった。同僚は勇者を見つけるべく、家中の部屋の凍ってしまったドアを力づくで開けていった。十一枚目のドアを破った部屋に勇者はいた。ベッドで布団にくるまり、ガタガタと震えていた。
同僚は呪いの再発を疑い、勇者に問いかけると再発はしていないらしい。詳しく話をしてみると、どうやら呪いを受けていた時の灼熱が今でも恐ろしく、家の気温を魔法で下げたままにしているらしい。
勇者をこのままにしておくわけにはいかない。呪いが関係ないのであれば、一度外に連れ出す必要があると思った同僚は布団をひきはがそうとしたが、さすが勇者だ。力が強く微動だにしていない。仕方なく、勇者を布団にくるんでそのまま外に持って行った。
家を出たところで、布団が暴れだした。外の世界が怖いのだろう。とりあえずは冒険者ギルドへ向かうこととする。勇者と親しい受付や後輩、先輩の冒険者がいたはずだ。ひさしぶりに会うのもいいだろう。
すっかり落ち着いた布団が冒険者ギルドの門口に現れた。屈強な同僚が担ぐ布団に冒険者たちの視線が集まる。
小柄の女性冒険者が寄ってきた。勇者と同僚の後輩の、ナイフを使う身軽な動きで敵を翻弄するシーフの少女だ。勇者を迎えに行った同僚が、芋虫の如くもぞもぞと動く布団を持ってきたのを不思議に思って来たようだ。
同僚は事情を説明すると、後輩はなにかを思いついてギルドに併設されたバーのカウンターから何かを持ってきた。その手にはキンキンに冷えたエールが注がれたジョッキが握られていた。後輩は、冒険者なら誰もが好んで飲むこれなら勇者も平気だろうと思ったらしい。ジョッキを勇者の頭があるほうに近づけてみると、手が伸びてジョッキを奪い取って、熱い物を飲むように吹いて冷ましてから布団の中で器用に飲み干した。やはりエールの魅力には逆らえなかったようだ。
冷たいエールでもこんなにも慎重になる様子を見た後輩は「こりゃ重症だ」と口を突いて出た。
受付のエルフの女性に布団と一体化した勇者を紹介した。受付は少し顔をしかめた。その勇者、ちょっと匂う。確かに言われてみれば匂うなと、同僚は同意した。
荒くれものの冒険者だ。風呂に入れない状況はよくある。それ故にそのへんの感覚がにぶっていたのだろう。気づかなかった同僚はそう言った。後輩は気づいていたようで、傷つけないようにわざと言わなかったらしい。どうりでさっきから後輩の距離がいつもより半歩遠いわけだ。
ギルドにあるシャワー室へと勇者を連行した。風呂を嫌がる猫のように勇者は暴れた。やめろ、殺す気か。シャワーで死ぬもんか。勇者と同僚の戦いは、同僚の勝利に終わった。温かいものを恐れる勇者を気遣い、冷たいシャワーを体を先から少しづつあてていって、さらにシャワーの温度も少しづつ上げていく。温めの水温でも勇者はおびえながらも平気だったが、そこから少しでも温かくすると暴れまわって逃げ出した。本当に猫を相手している気分だと同僚はひとりごちた。
その様子を見ていた先輩冒険者が話しかけてきた。弓矢を使った狩りが得意で、どんな魔物でも彼からは逃れられない。同僚も勇者も弓矢の扱いを教わったり、一緒にクエストにも行った頼れる先輩だ。
呪いの時のトラウマなら早く克服させたほうがいい。トラウマはそのまま放置して避けたままだと、どんどん治すのに苦労するよ。
先輩の助言を受け、勇者のトラウマ克服訓練が始まった。布団にくるまっている様子からして、布団は怖くないらしい。大丈夫だとわかったものは平気なようだ。まずは日常生活で使う常温のものに触れさせていこう。
同僚はさっそく冒険者には欠かせない、冒険者ギルドでありふれたものを持ってきた。勇者のメインウェポンであるロングソードだ。これなら良く使うし、これからも必要になるものだ。いかに魔王を倒したという大偉業の報酬で、これから一生家にこもっていられるほどの蓄えがあるとしても、収入がないのはよくない。
鞘に収まったままのロングソードを勇者に渡しても、やはり触れようとしない。勇者の剣も魔王を倒した時以来さわっていないらしい。同僚は勇者の頬に柄を押し当てた。どうにかこうにか勇者はロングソードを持つことに成功した。平気だとわかったら今度はがっしりと掴んで離さなくなった。乳児がおしゃぶりをくわえていると落ち着くようなものか。
弓矢にナイフ、日用品も使えなきゃダメだということで食器類と貨幣も触れさせた。色々勇者に与えてみたが、どれも最初は怖がった。慣れれば平気になるようだが、この様子だと全てのものを慣れさせなければならない。まるで子育てしているような気分になってくる。
世話を焼いてくれる同僚、後輩、受付、先輩を勇者は布団の隙間から窺っていた。いまだに灼熱の恐怖は薄れない。本当に熱くないと安心できたものしか触れることができない。冷たいものこそ真に安心ができる。けれど、仲間たちはあたたかった。全ての物に怯える自分の世話をすることは、さぞかし面倒だろうに。勇者は冷えた体の奥がじんわりとあたたかくなるのを感じていた。
そう遠くない未来に、またもや偉業を成し遂げる勇者の姿が見られるようになるが、そのそばには三人の仲間の姿があったという。